予備知識なしでキリスト教会へ行くと、場合によっては想像していたものと違ってがっかりするかもしれません。
ですが、キリスト教会へ行く前にこのページで紹介しているようなことを知っておくとがっかりせず、気長にキリスト教会に通えます。
キリスト教徒はいい人が多いわけでも悪い人が多いわけでもない
キリスト教徒はいい人が多いわけでも悪い人が多いわけでもありません。普通です。
政治社会の問題を真面目に考えるキリスト教徒と、無関心なキリスト教徒
政治社会の問題に関心が高いキリスト教徒もいれば、無関心なキリスト教徒もいます。
社会運動に熱心に取り組み政治問題について熱心に発言するキリスト教徒もいれば、政治社会の問題に熱心に取り組むキリスト教徒を冷笑するキリスト教徒もいます。
日本の戦争責任を重く受け止めるキリスト教徒と、責任は無いと言い放つキリスト教徒
日本の戦争責任や日本のキリスト教会の戦争責任を重く受け止めて反省して、勉強して、日々の仕事や生活や信仰生活に取り組んでいる人もいます。
一方で、日本は追い込まれて戦争をしただけであり、他の列強も侵略戦争を繰り返していたのだから日本だけが責任を問われる筋合いはない、アジア太平洋戦争を行った日本は何も悪くない、言い放つキリスト教徒もいます。
戦争が起こると多くの人が死に、増え過ぎた人口を減らせるので戦争は良い面もある、と言い放つキリスト教徒もいます。
日本キリスト教会のようなある程度まともと思われる教派の内部にもそういった極右のような主張を持っている幹部や信徒はいます。
謙虚なキリスト教徒と、思い上がったキリスト教徒
謙虚なキリスト教徒もいれば、エリート意識むき出しの牧師などもいます。
キリスト教の負の歴史を批判するキリスト教徒と、過去に目を閉ざすキリスト教徒
「世界でキリスト教徒が増えれば戦争は減るはずだ」などと言い放つキリスト教徒もいます。
「キリスト教会は歴史上世界中でキリスト教徒でないものは人間でないとみなし殺戮を繰り返してきたのだ、キリスト教徒が増えて戦争が減るわけがなかろう」と理解しているキリスト教徒もいます。
世界の諸問題に当事者意識を持つキリスト教徒と、無関心を決め込み欲望のまま生きるキリスト教徒
高所得層のキリスト教徒の両親のもとに生まれ苦労もなく育って「神が作ったこの世界、楽しまにゃ損損、富の不公平な分配や環境問題や世界で起きている不正や悲惨なできごとなど私にゃ関係ない」と言い放ち、毎日飲んで貪り食って歌って踊り狂っているキリスト教徒もいます。
一方で、「現代社会では人・モノ・カネが世界中で動いており、自分も世界で起きているすべてのことの当事者なのだ。富の不公平な分配や環境問題や世界で起きている悲惨なできごとなどの種々の問題を解決できるかできないかは全て自分の行動にかかっている」と理解して毎日働いたり社会運動や政治運動をしたりその他の諸活動に疲れながら取り組んでいるキリスト教徒もいます。
ナチスのやり方を真似したり、核共有をしたいと言い放つ極右キリスト教徒
日本の右派の政治家を見れば、ナチスのやり方を真似して国民が気付かないうちに改憲してしまえないだろうかという趣旨のことを言い放つ人間や、アメリカ合衆国と核共有をしたいと言い放つ人間など、極右キリスト教徒がたくさんいます。
左派のキリスト教徒
右派政党にキリスト教徒がたくさんいる一方で、考え方が真逆の左派政党にもキリスト教徒はいます。
例えば日本共産党の参議院議員の故小笠原貞子はキリスト教徒でした。
小笠原貞子著「一粒の麦 政治に愛を」学習の友社|日本の古本屋
一般社会と同じで、様々な人がいるということです。
キリスト教会の内部も様々な人がいて、ナザレ出身のイエスの弟子の自覚を持って生きているキリスト教徒もいれば、イエスの生き方考え方など無視して生きている「キリスト教徒」もいて、何のまとまりもないということです。
参考
昭和日本基督教会史 天皇制と十五年戦争のもとで [ 金田隆一 ]
話が通じる牧師もいれば通じない牧師もいる
信仰に関する疑問などについて話をしたとき、話が通じてみのりある懇談ができる牧師もいます。
信仰に関する疑問などについて話をしても、エリート意識むき出しで相手を論破してやろうという態度で全く話が通じない牧師もいます。
牧師の親のもとに生まれて、キリスト教関連団体が経営する私立の中学高校大学に通い、牧師になってキリスト教で飯を食う生活に入り、エリート意識むき出しで一般信徒を見下し、一般社会を知らない牧師になってしまう人もいます。
同じように牧師の親のもとに生まれて自分も牧師になったとしても、おかしな意識は持たずに真面目に教会員と向き合って真面目に仕事に取り組む牧師もいます。
牧師でもキリスト教徒でもない保護者のもとで育ち、キリスト信徒になり、労働者として社会生活を送った後に色々あった末に牧師になったという牧師もたまにいます。
私たちも牧師も同じ愚かな人間の一人なので、生まれ育った環境に影響されて思い上がったり謙虚になったり色々な育ち方をするのは不思議なことではありません。
まともに話が通じない牧師がいたとしても、「私も牧師も同じ愚かな人間だ。思い上がりの激しい牧師がいても別に不思議ではない。」と思って適当に付き合えば良いだけのことです。
聖書の解釈は幅広く深いので、がっかりしても気にしなくて大丈夫
教会に通ってみて、聖書を初めて読んだら、聖書の内容が想像していたものとかけ離れていて、現代の人権意識とも多様性を認め合う精神とも動物福祉などに関する倫理観とも相入れない内容でがっかりするかもしれません。
現代の人権意識とは相入れなかったり、多様性を認め合う寛容さなどもない内容を読んだら、率直に「この内容は私の人権意識では受けれがたいものだ。このような不寛容な態度は取るべきでない。」などと思って読みます。
キリスト教の聖書であれ、仏教の経典であれ、繰り返し読まれて熱心に解釈が行われて、深く読み込まれてきています。
一読して、悪い内容だとがっかりしたり、良い内容だと喜んだりできるものではありません。
聖書はまだ人権という言葉もない時代の古代人が書いた文書の集まりであり、字面をそのまま読めば、悪いことがたくさん書いてあります。神がイスラエル民族に対してカナンの人々を殺戮しろと命令したりします。
こういった内容は全くひどい内容で、まともな倫理観を持っている人間が読めば怒り心頭に発してその場で聖書をビリビリに破いてまきストーブに入れて燃やしてしまおうと思うかもしれません。
教典にひどいことが書かれているのはキリスト教に限りません。例えば仏教の教典にも差別的な記述があるものもあり、後ろの解説で、このような内容・考え方は明確な差別で教典が書かれた時代には当然のように考えられていた内容だが現代では当然通用しない、というように解説者が解説を書いていたりします。
キリスト教や仏教のような宗教に限らず、世界中にあるその土地その土地の宗教も動物を犠牲にする宗教儀式があったりし、現代の倫理観では全く受け入れられないナンセンスな儀式だと判断し廃止したりしています。
聖書や教会や牧師にがっかりしても気にしなくて大丈夫
聖書を読んで、がっかりせずに悪い内容は悪いと普通に批判して、古代人が書いたひどい文書群だと理解した上で気長に聖書を読んで、また書店や図書館にある聖書の内容を解説している様々な本を気長に読んでいけば、どのように理解するべきか分かってきます。
キリスト教で飯を食っているインテリやエリートたちから上から目線で何を言われても、全然気にせず自分なりに神がどのような存在か探し求めていけば良いと分かります。
そもそもナザレ村出身で大工をしていてエルサレムで処刑されたイエスも、インテリでもエリートでもありませんでした。インテリでエリートということでいけばパウロの方がインテリでエリートです。
キリスト教やイスラム教なら神はどのような存在か一日二日で分かるようなものではなく気長に祈ったり教典を読んだりする必要があり、仏教ならブッダが悟った般若の智恵を知る手前まで行くには気長に各宗派が採用している取り組み(詳しくは分かりませんが、たとえば禅定など)をする必要があります。
気長に取り組む必要があることなので、一日二日の経験でがっかりしても別に気にしなくて大丈夫です。
参考
どう読むか、新約聖書 福音の中心を求めて【電子書籍】[ 青野太潮 ]
「十字架の神学」をめぐって 講演集 (新教新書) [ 青野太潮 ]
神は何のために動物を造ったのか 動物の権利の神学 [ アンドル-・リンゼイ ]
曹洞宗 心の柱