キリスト教会は基本的に自由に入れる

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キリスト教会に行ってみたくても、キリスト教会は自由に入れるのかどうか分からなくて不安かもしれません。
キリスト教会は一応自由に入れます。

キリスト教会は基本的に自由に入れる

キリスト教会としては、多くの人に神の良い知らせを伝えたいと思っているので、基本的に誰でも自由に入れます。

キリスト教会は礼拝や集会があれば自由に入れる

キリスト教会では日曜日の礼拝や、他に「聖書と祈りの会」的な各種の集会などが開催されています。

そのような集会が行われるときは、たいてい自由に入れます。

教会に入っていって、「礼拝に参加したくて来ました」「表の看板に出ていた『祈りの会』に参加したいと思って来てみたのですが」などと言えばおそらく何か対応してくれます。

教会に初めて行く時はまず礼拝に行く人が多いので、種々の集会よりは礼拝に行く方が行きやすいです。

礼拝や集会などがなくても用事があれば入れる

教会に誰か来ていて鍵が開いていれば、教会に入って行って中にいる人に用事を告げれば、何か対応してくれるでしょう。

教会で集会も礼拝も何もない日は鍵が閉まっていることもあります。

用事がないときは自由に入れるわけでもない

寺なら自由に入れるところもある

寺なら、建物の扉が閉まっていて境内にも関係者以外が入れるような雰囲気ではない寺もありますが、日中は常に鍵が開いていて用事がなくても靴を脱いで本堂に入って座っていることができるような寺もたまにあります。

キリスト教会は出入り自由の寺ほどは自由でもない

キリスト教会はそういう意味では自由に入れる感じではありません。

キリスト教会が無人のときはたいてい鍵が閉まっています。
会社も無人のときは鍵をかけているのと同じです。

もし誰か人がいて鍵が開いていても、何も用事がないのに教会の建物に入って行って礼拝堂の椅子に座っている、ということはしにくいです。
例えば私が、自分が所属しているキリスト教会の礼拝堂に行って、何も用事がないのに礼拝堂の椅子に座って瞑想していたら、「いったいどうした?」と怪しまれます。
何も用事がないのに休日に会社に行って、職場のソファーに座って瞑想していたら怪しまれるのと同じような感じです。

祭壇も像もないから入りにくい

仏教の場合は、ブッダの死後しばらくの間は仏像のようなものは作られていませんでしたが徐々にブッダの足跡を描いたり仏像を作ったりするようになり、現在ではお寺に行けばメインの仏像があってその仏像の方に向かって拝むようなスタイルをよく見ます。

キリスト教の聖書に像を作るな、岩や木や太陽などの物は神ではないので崇拝するな、と繰り返し書かれているので、少なくともプロテスタントのキリスト教会の場合、教会の建物内に像や祭壇のような拝む対象のものが何もありません。
拝む対象の岩も木も像も祭壇もないので、礼拝や祈りの会的な人が集まる用事がない日にキリスト教会の建物に入って祈る理由がなく、祈ったり何なり信仰がらみのことをしたければ家かどこかですれば済むということになります。

プロテスタントのキリスト教会の場合はそのような感じなので、用事がないときに教会の建物に自由に入れる感じではありません。

プロテスタントのキリスト教会では像を見かけることは少ないですが、他のグループのキリスト教会では像などがあるところもあるようです。
カトリックのキリスト教会や東方教会の何らかの派のキリスト教会などの写真や映像を見ると教会の敷地内や建物内に像が多数置いてあるのを見かけます。
なぜなのかはよく分かりません。

補足情報 キリスト教会についての予備知識

キリスト教会に通ったりするときに、いくつか予備知識を持っておくのも良いでしょう。

予備知識なしでキリスト教会へ行くとがっかりしてすぐ行くのが嫌になるかもしれませんが、予備知識を持っておけばしばらく通ってみようという気持ちになるかもしれません。

キリスト教
筆者
わたし

差別や暴力が渦巻き、弱い者や不器用な者や真面目にやろうとする者を嘲り笑い、利他的な行動を偽善呼ばわりし、「老害」「シルバー民主主義」などの悪意の言葉が流行し虚構の世代間対立を煽る言説を信じてしまう人は多い一方で、実在する階級対立を認識できている人は少数しかいない今の日本社会と、差別や憎悪犯罪の温床と化したインターネットの世界に恐れを抱き、今日も怯えながら暮らしています・・・

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